―“自分だけが幸せになることが目的だっという人生”は人生の真実ではないし、真実の人生ではないと私は思います。―
戦前の日本人が持っている(または、持っていた)考え方は、“自分の前(さき)に他人への考慮がまず来る”というものではなかったでしょうか。本来の日本人の考え方は“自分”だけが幸せであればいいのではなく、“あなた”(自分以外の“人々”)の幸せをも含めて考慮するというもので、これは日本人が日本社会の習慣の中で、殆ど無意識的に所有しているものの考え方だと思います。つまり、日本人は自己の権利を否定し、自己自制から始まります。(ガンディーも同じ説を語っていました。)
日本人(東洋人)のこのような考え方とは反対に、一般欧米人(西洋人)の考え方というものは、まず自己の権利を肯定する自己絶対性が基盤となっていると思います。自己絶対性を信じるアメリカでは、日本人的“他人”の幸せを先ず考えるのではなく、すべての行動は最初に“自分”を守ることを目的としています。自分の幸せを求めるための “自己権利の主張”が大切で、それが前に押し出されてくるのです。ですから、GUN(拳銃)を持つ権利、そして、撃たれる前に、相手を撃つ権利があり、憲法(U. S. Constitutions)でもその権利が認められているわけです。このように、“拳銃”を持つ権利が強調されているアメリカ社会では、拳銃による犯罪事件に対する人の抵抗反応というものが、我々日本人には想像がつかないほど鈍いです。サンディーフック小学校の射殺事件(Sandy Hook Elementary School shooting)はご存じかと思います。20人の6-7歳の子供達が殺された時、アメリカ中が騒ぎました。でもその後、アメリカの世の中が何か変わったかというと、何ひとつ変わっていません。
私はインドのガンディー(Gandhi)の教えに惹かれて以来、彼に関する数々の本を読んで、我々日本人の持つ考えとガンディーが持っていた人間社会に対する考えが非常に近いものであることに気がつき、大変驚きました。仏教と儒教、さらに神道が入り込んでいる日本人の思想は、インドで生まれたガンディー思想とは全く違うと思っている日本人は多いことでしょう。正直な話、私もインドと日本はあまり共通性のない国であると思っていました。ところが実際には、二つの大変違ってみえる考え方が、その中枢部分で大変似ているのです。親や学校から私が日本で学んだことを、殆どそのまま、ガンディーも言っていたのです。
貴方が持っておられる世の中に対する考え方もガンディーの考え方に大変似ているんです。驚きます。貴方は機械文明そのものが、“呪われた夢”だと言っておられます。ガンディーも機械文明を鋭く批判していました。それを実践する如く、彼は糸車(カラカラ手で回転させて綿の糸を紡ぐ手動機械)を毎日使い、インドの全国民にこの作業を奨励しました。つまり、自分の手で綿布を作るという精神がインドを英国から独立させるための機動力になると信じていました。
また、ガンディーも子供を愛しました。自分自身の子供や目の前にいる子供という意味ではありません。すべての子供を愛しました。このところも貴方に大変似ています。その愛する子供達に彼は牢獄から手紙を送っています。“Little birds, ordinary birds cannot fly without wings. With wings, of course, all can fly. But if you, without wings, will learn how to fly, then all your troubles will indeed be at an end. And I will teach you.” (小鳥は、普通の小鳥というものは羽がないと飛べないね。もちろん、羽があると誰だって飛べるよ。だけど、もし君たち、羽がない君たちが鳥のように飛ぶ方法を学ぶと、その時、今の問題は本当にすべて終わってしまうよ。私がその飛び方を君たちに教えてあげよう。)この手紙の中で、ガンディーは教育も技術もない当時の貧しいインドの子供達に空を飛びなさいと言っているのです。そうすれば、問題はすべてなくなると。なんという大きな励ましの言葉でしょうか。大きな夢を子供達に与えようとしていたのです。涙が出ます。これはアニメーションの世界です。羽のない人間の子供が空を飛ぶんです。物理的に不可能なことをガンディーは、“君たちにもできる”と伝えているんです。武器一つないインドを世界を制覇していた大英帝国から、手でクルクル糸車を回しながら瞑想にふけり、いずれは独立させたんですから、すごい人ですよね。
ガンディーは“自分だけの幸せ”のために生きていません。ガンディーは裕福な家庭で育った法律家であったにも関わらず、俗世の欲をすべて捨て、インドのどん底の貧しさの中で生活する人々のような姿で自分も生きたいと考え、それを実行しました。その一方、英国で学んだ法律の知識を使い、当時の大英帝国(当時25%の地球を支配していたイギリス)と、武器もなく暴力も使わず戦い(nonviolent civil disobedience)、牢獄にも何度か入り、それでも、最後にはインドの独立を達成させた偉人です。そのガンディーが死んだ時に所有物として持っていたものはメガネ、サンダル二束(草履)、本一冊、茶碗とスプーンの二セット、それに時計でした。凡人の私には真似のできることではありませんが、彼の行動を伝える書物を読んで、聖書のように参考にして生きていきたいと今は考えています。
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―貴殿は“今の人類の夢っていうのは、すべて呪われてるんですよ”と述べておられます。―
世界の多くのものは“くだらないんです”と述べておられる。そうです。人生の真(誠、真実)は何かと真剣に考えたときに、私が気がついたことは、この世の殆どのものが真に欠ける、意味のない“無”です。現代、我々が生活の中で持っている多くの物も考え方も、マスコミ文化と消費主義経済によって生み出されたもので、我々は顔に化粧をつけられて踊らされている世界なんです。私も含み皆で一緒に踊っている社会なんです。その中に人間の真実性、真実味、人間として生きるために不可欠なもの、なんていうものは非常に少ないんです。物をドンドン買う世人は金が必要で、金を持っている人間を神様のように拝み尊敬し、金を儲けるためには何でもする。このような物欲金欲に溺れた人間達は動物をいじめ殺し、食卓でそれを食べ楽しんで、そして、いらなくなった物はゴミ、そのゴミを今度は他の土地に持って行って、そこに埋め、汚染の話には口を閉じる。これがアメリカの民主主義自由経済のやり方で、日本も買って売って、アメリカについて来ているわけです。その一時期、一分、一秒の快感に生きている人間ばかりなんですよ。これほどの嘘の真実は在りません。でも、アメリカからの影響が日本にとって大変良いことであると、今も、疑いなく信じている方が多いのではないでしょうか。
ドンドン作れ、ドンドン買え、ドンドン捨てろと、大量生産を可能にした機械文明を通して、自由と消費の経済体制を作ったのがアメリカです。そのような社会に生きる人間関係も“使っていらなくなったら捨てる”という関係で、功利的手段を重んじるアメリカでは、不必要になった物も人もさっさと切って捨てていきます。人間の情というものを比較的重視するアジア系諸国も、欧米風の自由経済よかれと洗脳され、アメリカの後ろにゾロゾロとついて来ているわけです。
日本がそうです。明治維新、第一、第二次大戦という西洋化の時期を通り、日本人は知らず知らずのうちに日本人のやり方とその心を次第に失いました。アメリカンスタイルが精神文化においても物質文化においても重宝されました。実生活では西洋文化に親しむ一方、他方においては、従来からの日本人精神を学校で学び、精神分裂症にでもかかったような状態で生きて来たと思います。畳の生活が急に石を踏む生活に次の日からなっても、心と体はそう簡単には変化しません。何かおかしいぞーと感じながらも、多くの日本人はアメリカ人の真似よかれとし、特に、日本女性がアメリカ社会に憧れているようです。
女性の権利というものに関して、特に、アメリカが民主的で進歩していると想像している人が多いようです。実は違います。日本にあるようなしっかり確立された女性のための産休制や生理休暇制なんてないんです。私は実際に使っているという女性の話を聞いたことがありません。そういう女性に出会ったことはありません。ないに等しいほど、アメリカの女性達は使っていません。そういうことが企業規定文に書いてあったとしても、競争の激しいアメリカの会社では、そんな休暇も取れないんです。日本の終身雇用制度もこの頃は批判されているようですが、アメリカにはそれがないために、実は、仕事場でのやり方(politics)がすごいんです。首にならないように、自分の功績を強調しなければなりません。人がいつもビクビク不安に生活している社会なので、他人に対する気遣いや親切、または遠慮に欠ける人間を生み出しています。昨日までランチを一緒に食べていた社内の友人がレイオフ(首切り)となると、ああ自分が首切りにならなくてよかった、ぐらいのことしか考えていません。コンピューターのソフトウェア関係の会社だと企業情報を盗まれては困るので、首になった人が自分の所有物を机の周りから片づけたりするのを、会社に雇われている警備員がすぐ傍に立って、マジマジと眺めるということも聞いています。アメリカ人が書く履歴書は、当たり前のように自分の功績を誇張した嘘を含みます。
そして、呪われて過ぎて、もう、どうしようもないアメリカ人の夢を、今、日本人も同じように追っているんではないかと私が思います。
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―“自分が幸せになることが目的”-これはアメリカから来た考えです。―
今の日本人がこのような言葉を発するようになったのであれば、日本人がいかにアメリカに影響されてしまったかという証拠です。日本人が変わってきたんです。非常に危険な状態です。人種差別と貧富の大格差を生んだ組織体制、極度な金欲物欲主義、友情も人情もない卑劣な利益主体の経営方針、親も子もない極端な自己主義-このすべてを集めたものが今のアメリカ社会です。セカセカとした人間ばかりが動き歩くアメリカの街中では、見て見ない振りをしてホームレス(HOMELESS)の人々を避けて通ります。自分さえよければ、他人のことはどうでもいいんです。もしアメリカ(西洋)が本当にキリストの教えに従ったクリスチャンの国だとしたら、黒人奴隷の歴史はなかったはずです。
現代生きる日本人が横柄に見えたり、無作法であったりするなら、それはアメリカの影響です。アメリカ人のよい所やアメリカ社会のよい所は確かにあります。日本人に良い人もいれば悪い人もいるように、アメリカ人に悪い人もいれば良い人もいます。でも日本はアメリカにほれ込んで洗脳されて、アメリカの激しい競争社会が生んだ悪質な部分を理解していない日本人が多いと感じます。特に、アメリカの拝金主義が生んでいる悪が、日本の社会を変えていくのはまだまだこれからです。だから、今、ブレーキをかけないといけないと思います。
私からするとごく当たり前で、非常に基本的なものである国民皆のための国民健康保険を作るのに、アメリカが大変時間がかかったという事実も、国民皆が安く使える電車やバスなどの交通機関の改善度は、日本のそれと比べるとまるで原始国のレベルで、最近やっと始めて新幹線に似たものを作ろうとしているという事実などは、知っておられることでしょう。“自分が幸せになることだけが目的”とする政治家とそれを後ろからバックアップしている経済人や法律家が、ずっと全国民の幸せを考えずに、自分達の都合だけを主体に国を動かしてきたからなんです。このような政治家や経済人、または法律家はいい車を持っているし、個人で健康保険を買うだけの収入は十分にあるので、全国民のための健康保険や交通機関に国が資金を出すなんて、問題外の問題だったわけなんです。オバマ大統領が押し進めて、2014年にやっと始まった国民健康保険ですら、今も反対派によって裁判沙汰で、いつどのように変化するかもわからない状態です。なにしろ、政治の対策や政策が、その時の大統領や州の政治団体によってコロコロ変わるのです。このように、日本人が常識だと思っていることとアメリカ人が常識だと思っていることが全く違うんだということをとことん理解しておかないと、政治関係にしろ、ビジネス関係にしろ、また個人的人間関係にしろ、日本人がアメリカ人と接した時に、その期待することが全く不意なものとなり、大変な違った結果がやってくる可能性があります。
西洋の食事にフウオグラ(Foie gras - French for "fatty liver")という特別な食品があります。これはアヒル(Duck)や雁(Geese)の胃の中に機械を使って口から無理やりに食べ物を押し込み、鳥の肝臓(Liver)を普通の10倍に膨らませ、鳥たちを徐々に太らせ時間をかけて殺します。鳥は血を吐きながら苦しんで死ぬと聞きました。フウオグラは高級品好物で、このような残虐なやり方で殺していることを知っていても、“おいしい”とそのレバーを楽しみます。単に鳥を殺すのと残虐なやり方で鳥を殺すのでは、大きく意味が違います。カリフォルニア州ではこのフウオグラが一時禁止になっていましたが、先月また許可が出たので、高級レストランのメニュとして近々出てくるでしょう。これも、“自分が幸せになることが目的”であるという例です。さらに、この法律解除は人間の生きる道として本当に正しいかどうかということを考えた後の結論ではなくて、州の法律を作る連中に何らかの利益があるから、フウオグラの許可変更を認可したとしか考えられません。“政治の対策や政策が、その時の大統領や州の政治団体によってコロコロ変わる”という例でもあります。つまり、人間として何が正当なやり方なのかではなくて、何が自分達にとって、一番利益に繋がるかということだけに、アメリカの政治家達は焦点を置きます。それは、国の利益どころか、単に“自分個人”の利益だけが計算に入って来ます。
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―アメリカでは日本人も人種差別の対象であるということを日本の皆さんはご存じでしょうか?―
日本人の高校留学生がパーティがある家だと間違って思い、その家の玄関に近づいたというだけで射殺された事件をご存じでしょう。1992年のことで、その留学生というのは、当時、愛知県立旭丘高等学校3年生であった服部剛丈(はっとり よしひろ)君です。その裁判ではピアーズ(アメリカ人の射殺人)を殺人犯罪者として罰することもなく終わっています。あれは卑劣で不公平な判決でした。
ウィキペディア百科事典によると、ピアーズに対して、日本の刑法では傷害致死罪に相当する殺人罪と見ましたが、アメリカの東バトンルージュ郡地方裁判所陪審員は12名全員一致で無罪の判決を出しています。この判決結果は日本人に対する人種差別なんです。
この時、この不公平裁判に対して、日本政府は何もしていません。アメリカへの政治や軍事援助を一切断ち切る、とでも日本政府が発言していれば、アメリカ連邦政府は日本が望むもっと公平な再裁判のために、何かの策を打ち出したでしょう。アメリカ政府に文句を言うことができない日本政府には大きな問題があります。郡の地方裁判所陪審員は12名のうちの白人10名、黒人2名でしたが、この中に4人位のアジア系アメリカ人、つまり、東洋人種の陪審員がいてもよいはずだったのです。この不正当な裁判のやり方に疑問を感じる敏感さに日本人が欠けるところもあります。それは、日本人が持つ性格で、自分たちが当然として持っている“権利”というものを要求しないところがあり、また、そういう要求ができないだろう、と考えてしまう引っ込みがちな国民柄のせいだと私は思います。
ここで事件の真実を上げてみると、服部君は銃を持って、この家に向かったのではないということ、それゆえ、つまり、自己防衛をしようとしてピアーズは服部君を打ったのではないということです。 “パーティにやって来たんです”と微笑みながら近づいてくる服部君に対して、危険を感じたとピアーズは言っています。ピアーズは銃で彼の胸を狙って打っています。この行為に対して、12人アメリカ人陪審員全員が“無罪”と返答したのです。こんな馬鹿ばかしいことがアメリカでは通るんです。服部君がアメリカ人ではなく、日本人であったためです。このような日本人差別不公平裁判に対して、日本政府がアメリカ政府に立ち向かっていない!これは非常に悲しいことです。
このような同じ事件が日本で起こったとします。アメリカ人高校生が日本人に招かれたパーティに出席しようとして、間違った家に行ってドアベルを鳴らした。すると、家の住人がナイフで襲い掛かってきて、そのアメリカ人高校生を殺した。これはもうアメリカ中を騒がせる大事件です。アメリカ人は、アメリカに住む日本人を暴力でもって攻撃するかもしれないほどの大騒ぎになるでしょう。真珠湾攻撃の話までテレビやラジオでし始めるでしょう。1970年代、日本の自動車産業が有力になり、アメリカの自動車産業の販売が落ちたため、アメリカの車会社に働いていた多くのアメリカ人が仕事を失った時、彼らの行動は自分達の功績に対する反省ではなく、日本人に対する攻撃(Attack)という方向に出ました。アメリカ人は日本人と中国人の区別ができないで、当時中国人の男性一人を殺害しています。日本車をひっくり返し燃やし、日本に対する彼らの怒りを“暴力集団の脅し”(Threat)のようなやり方で表現しています。真珠湾攻撃や神風特攻隊の話は、アメリカ人が事件があるごとによく引き合いにする内容で、2001年9月11日に起こった世界貿易センタービル航空機衝突炎上事件の時にも、まるで“神風”だとラジオで報道していたのを聞いて、アメリカ的なコメントにかなり慣れた私ですら、ギクッとさせられました。私には、日米の終戦はまだ完全には来ていなくて、アメリカ人の日本に対する憎しみや、日本人の敗戦で受けた後遺症がまだ残っていると見えます。服部君の事件でわかるように、要するに、アメリカは日本人を差別し、日本政府はそれを黙って受け入れている部分があるというところです。
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―真珠湾攻撃後は、アメリカ人にとって、日本人の顔を持つすべての人間が敵でした。―
真珠湾攻撃後、アメリカに住んでいた日本人と日本人の血が入っている二世や三世の日系アメリカ人は全員、夏は非常に暑く、冬は非常に寒い、砂漠のような場所にあった馬小屋と変わらないような強制収容所(Japanese internment camps)に監禁されました。アメリカにとって、すべての日本人や日系人が敵に見えたということは、戦争中であったということである程度の理解はできます。しかし、このようなアメリカ兵が監視する鉄条網で囲まれた収容所に入れられたのは、日本人種だけで、アメリカ政府はイタリア人種とドイツ人種に対して、このような強制移動の法令を出していません。殆どの日系人家族は所有していた土地、財産をすべて失いました。それだけではないのです。アメリカ国籍を持つ二世は、後、アメリカ戦士としてヨーロッパに送られ、イタリア軍と第一線で戦っています。彼らはこう言っています。アメリカを愛するアメリカ人としての根性を出し、強制収容所にいる日本人の親のためにも、そのアメリカ人愛国心を証明したかったと。アメリカの勝手なやり方がここでよくわかります。一方では日本人の顔を持つ人間としてこれらの二世達を強制収容し、他方では同じ二世達をアメリカ人扱いで最も激しかった第一線の戦争に出征させたという事実。このような矛盾したことを平気でやるのがアメリカです。その時その時、都合の良いように、法律やルールを変更し、アメリカが最大利益を得る方法を作っていくわけです。そして、第一線で戦った日系アメリカ人が戦死することもなく、自分たちの家に戻ってくると、今度は日本人の顔を持つ人種として、戦後も続けて、周囲のアメリカ人達から日本人差別を受けました。
強制収容移動の結果、土地も財産も失い、学校や仕事も中断させられた日本人一世と日系アメリカ人は、元の土地に戻ってきても生活の術もなく、どんなに辛かったでしょうか。
“信用のおけない人種だという先入観に加え、危険な敵国人としてのイメージも報道されるようになりました。反日運動家は、アメリカ在住の日系人を、昭和天皇の「秘密部隊」だと責め立てました。. . . 真珠湾攻撃により、アメリカ国民である二世も含め、すべての日本系の人々は猜疑と不信の目で見られるようになります。. . . 真珠湾攻撃に対する怒りは、日本人の顔をしてる者は誰でも敵国日本に同調するだろうという、人種に基づいた憶測を招きます。. . . 日本人の血を引いた人達に適応されましたが、ドイツ人やイタリア人には使われなかったのです。. . . 1943年に行われた、アメリカ政府によって強制収容所の日系人に配布されたアンケート、忠誠登録は、日系コミュニティーに内部亀裂をもたらし、それまでの人々の生活を大きく変えました。その中に含まれていた「アメリカ軍に参加するか」と「日本の天皇への忠誠を破棄するか」という二つの問いに「ノー」・「ノー」と答えた人たちは、アメリカ政府に不忠誠とみなされたのです。そして、監視度の高い隔離センターであるカリフォルニア州北部のツールレイク強制収容所に移される結果となりました。1944年の冬から1945年にかけ、この収容所では5500人以上の二世がアメリカ市民権を破棄し、戦争で大きな打撃をこうむった日本へと国外追放される可能性に直面することになったのです。日本に帰還を望む一世の親への思いや、生まれた国であるアメリカに拒絶された怒りに影響された決断でした。”というふうに、日系アメリカ人の歴史記録には載っています。( http://nikkeijin.densho.org) (アメリカ政府によって強制収容所の日系人に配布されたアンケート)忠誠登録というものは、日本人とその子供たちの日系アメリカ人がアメリカの国に対して、忠誠があるかどうかをテストする検査みたいなもの。)
自分は肉親が住む日本国を敵とし、アメリカ戦士として大戦に参加すべきなのか、また、そうしなければ、アメリカ政府からさらに、日本人の親へ、また、自分自身にも犯罪者としての刑罰が下るかもしれないという、不安、混乱、自己矛盾、自己否定にと、このようなすべての精神抑圧の中で生きて来たわけです。
貴方が描かれた人生の葛藤だと思います。人間が人として正しく生きたいと望む時に、だが、それができない、そのための答えがない時の葛藤であったと私は考えます。
大戦中に起こった、アメリカに住む日本人一世とその家族の悲しみについて、日本の歴史教科書は全く触れていません。日本人の多くはこの事実を知りません。日本政府のアメリカへの気遣いでしょうか? 最初に労働者としてアメリカに渡った日本人は、奴隷とあまり変わらないような扱いを受けています。首に番号札を付けられて、番号が名前の代わりをしたという記録が、ロサンジェルスの日系人国立記念館(The Japanese American National Museum)には残っています。このような歴史的事実を日本国民に発表しないのは、アメリカ政府に対する弱みが日本政府にはあるのでしょうか。もっといろんな話がありますが、ここには全部書けません。貴殿もいつか是非、この記念館をご訪問ください。
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―日本政府は日本国民の税金をアメリカに戦争資金として出しているようですが、アメリカはアメリカ在住の日本国民を完全に軽視しています。―
日本政府が日本国民の税金から来ているお金を、アメリカの要求のままに戦争支援金として出しているのであれば、日本政府はアメリカ在住の日本国民に対する全差別を取り除き、日本人の面倒をしっかり見なさいと、アメリカに主張してもらいたいですね。服部剛丈君の事件をもう一度持ち上げて、公平な裁判をやってもらいたいですね。これは終わった話ではないんです。日本人は、現に今も差別の対象になっているのです。アメリカは日本人の“おとなしいところ”を利用しているんです。それがアメリカのやり方です。アメリカという国にガンガン言って、日本国の権利、日本国民の権利を主張しなければ、アメリカは日本を甘く見、軽視し続けるでしょう。
日本政府は、アメリカが日本国をアジア諸国の中で一番大切な国だと思っていると勘違いしているかも知れませんが、アメリカは単に日本の持っているお金を目当てにしているだけです。アメリカの戦争に巻き込まれつつあります。大変危険です。現に国際提携国として資金援助をしたために、日本の一国民がイスラムステイトの敵にされてしまいました。日本に住む皆さんも、日本がアメリカに援助金を出すことで、日米友好関係を深めるのに役立っていると思っているかもしれません。そして、“友達”の日本人を友達として扱っていると思っているかも知れません。ところがそれは全くの勘違い。現実にはその反対です。例えば、私が住んでいる地域のカリフォルニア州政府が管理しているDMW(運転免許をもらう場所)に行くと、中国語や韓国語、インド語やベトナム語に訳された資料やマニュアル等があっても、日本語に訳された日本人向けの資料(マニュアル)だけがないのが現状です。日本語だけがないんです。健康管理のクリニックセンターや法律問題を取り扱う裁判所内の情報センターに行っても同じです。他のいろんな言語での援助があっても、日本人のため日本語援助だけが欠けています。日本語だけがないということは、アメリカが日本人に対して不平等扱いを平然とやっているとしか思えません。日本人は黙って大人しく生きている人種であるから、“ほっておけ”と無視されているのだと思います。
アメリカ政府が“日本人種を軽視している”なんてこと、阿部首相は知らないでしょう。そして、アメリカ政府の言われるままに資金を出し続け、いつの間にか、次の第3世界大戦に巻き込まれるのでしょうか?イスラムステイトによる日本のジャーナリスト首切り事件や阿部首相の訪米の話などは、ここシリコンバレー近辺の新聞には、その4-5ページ目に小さく掲載される程度で、日本人と日本国の話題がアメリカ社会では全く重要視されていないことが良く分かります。
国際、国際といっても、欧米人が今も力を握っている世界です。英語が十分に話せない日本国がイザというときに役に立つと、アメリカは思っていません。アメリカの方針は大変冷たく、不要になった人も国もビジネスも、無能になった人も国もビジネスも容赦なく切っていきます。日本人が信じている“人情”というものは全くありません。日本人が重きをおく“人間的なつき合いを大切にする”というような心は全くありません。自分達の政権を守ることだけが重要で、すぐ目先の目的だけで判断をしていくアメリカの政治家には、自分のことを考える前に相手のことを考えるというような日本人の人情もなければ、このような長期的見解には全く興味がありません。
簡単な例をあげてみます。サンフランシスコの南にウェストレイク(Westlake)という大きなショッピングセンターがあります。ここは最近まで、客足も少ない殺風景な場所でした。でもこの中に美味しい軽食レストランがあり、ここは客数も定着していて繁盛していました。私も何回か行きました。このあまりパットしない所に25年ほど存在し続けた歴史があるということは、入れ替わりの激しいレストラン業としては大変成功していたと言えるでしょう。ところが、アメリカの資本家によってこのショッピングセンターが大々的に改造され、トレンディー(Trendy)で美しい店が入り出しました。そのため、ショッピングセンターの人気が急増すると、この小さなレストランに月3,000ドルの値上げを要求してきました。急増した借地金を支払うことが無理なこのレストランは出て行かざるをえません。極端な値上げをして、シャレたとは言い難いこのレストランを追い出そうとしたわけでしょう。近くにあった35年存在していた日本のレストランも店を閉めていなくなりました。25年間の知り合いであろうが、35年間のビジネスパートナーであろうが、必要でなくなれば切っていきます。これと同じように、日本国の地理的利点や経済的利点がアメリカにとって大切でなくなり、日本国よりも他の国がもっと便利になると、簡単に日本という国を切っていくでしょう。
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―日本の“安全”と“平和”の価値を良く理解している日本人は少ないと思います。―
日本にいる友人の6歳の子供が新宿のような繁華街を電車やバスを乗り換えながら、1時間近くかかる私立の学校に通っていること知って、私はびっくりしました。6歳の女の子にこのようなことができる、また親が子にこのようなことをさせることができるということは、日本という国は正に天国のように安全で平和な国であると言えます。この日本の安全と平和の価値が一体どれだけ大きな意味をなすか知っている日本人は少ないように感じられます。でも、これは20年前の話です。今の日本はどうでしょうか。
丁度同じ頃(20年前)のアメリカの状況を話しましょう。これは私の娘が経験したことです。その時、私が住んでいた家のすぐ隣に、娘の同級生のフランクという男の子が住んでいました。確か、その時は娘が十歳だったので、フランクも十歳位でしょう。遊ぶ時には、2つ年下の弟と4つ年下の妹がいつも一緒でした。たいへん仲が良く、殆ど毎日、私の娘はその家に遊びに行っていました。一度行くと1-2時間は家に戻って来ません。ところがある日、娘がすぐに戻って来たので、“フランク達、家にいなかった?”と聞くと、娘が“フランク達は家にいたけど、ドアを開けることができない”と言う。一体どういうことかと思って、詳しい話を聞いてみると、フランクは親が外出中には、友達であっても絶対にドアを開けてはいけないという指示を受けていました。驚きました。毎日遊んでいる隣の家に住んでいる友達でさえも家に入れてはいけない、という指示を親から受けるような世の中に、アメリカの子供達は生きているということに、私は初めて気が付きました。このように、子供の誘拐が多いアメリカでは、親達は子供の行動に関して、非常に神経質です。友達が訪ねてきても、親の不在中には玄関のドアを開けてはいけないという結果、近所の子供同士が気軽に遊ぶこともできないのです。これは20年前の話です。今のアメリカが想像できますか?
アメリカの高速道路を素晴らしいと考えている人は多いでしょう。それはアメリカの車社会に対する単純な結論です。公共交通機関に欠けるアメリカでは、車がない人にとっては、日頃の生活に必要な買い物をするのも不便です。各家が普通車を2台持つのが一般的で、子供が使用する車や仕事用の車が必要な場合は4台ほど持っています。その車が家の前の道路に駐車されていたり、走ったりするので、幼い子供達が集まって自分達の家の前で遊ぶということは先ずないと言えます。近所同士で気軽な挨拶をかわす機会もあまりありません。住宅間では時速25マイル(25 miles/hour)で車が走ってもよいので、2車が向かい合って来ると時速50マイル(50 miles/hour)ですれ違うことになり、お互いに手を振りあったり、会釈を交わすという状態ではありません。車からわざわざ出てきて、挨拶をしたり、話をし始めることは大変稀なことです。ちょっとした人間同士の町中での会話が、平和な雰囲気を作り出しますが、そういうものがアメリカでは殆ど見られません。
バスや電車が便利ではないので、子供が運転許可を取る年頃(16歳)まで、親が学校の送り迎えの運転手になります。これも親の経済力次第で、子供に車を買ってやれない場合は、子供が大学生になっても、親が子供の送り迎えをすることになります。つまり、(日本のそれとは違った意味で)親が子供の生活をコントロールする期間が日本の場合よりもずっと長いわけです。このように長い間、親がコントロールする生活を続けていた子供が、自分でドライブするようになって、親の目から離れることができ自由になると、今度は、アルコールとセックス、さらには、ドラッグといった活動に入りがちであると言っても言い過ぎではありません。カリフォルニア州では、最近マリワナ(marijuana)の販売許可が下りました。信じられないことです。マリワナが、さらに問題を作る要素を子供の環境に加えたようなものだと思います。
今、アメリカでは刺青がファッションとなり、刺青をしている人が多くなりました。男女10人いればその内の3人は刺青をしていると言えます。今、男女と書きました。そうです。女性も肩から腕、腿や足と“立派な”刺青をしています。赤ちゃんを片手に抱いているようなお母さんまでも刺青をしています。サンフランシスコの打ち上げ花火を見に行くと、周りにいる連中は刺青をして、ズボンを下げ下着が半分見えるような恰好のグループに出会います。日本の平和な花火大会とは大違いで、いつ暴力が発生するかと思うような怖い雰囲気です。
サンフランシスコ内のストリートフェアやパレードでは、拳銃やナイフによる殺人事件が相次ぎ、そのようなイベントを中止してしまったものもあります。野球の試合を見に行くといったような家族で楽しめそうな場所でも、暴力が相次ぎ、最近の事件では、ジャイアンツ(Giants)とドジャーズ(Dodgers)のファンの喧嘩騒ぎで、頭を強く殴られた男性が昏睡状態に陥りました。9ヵ月後にその人は昏睡状態から抜けることができましたが、今は車椅子の生活を送っています。
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―日本の小、中学校における基本教育は大変立派なものです。―
アメリカの公立学校では、日本にある家庭や体育の授業もなければ、音楽や絵の時間さえもは殆ど取り除いています。カリフォルニア州ではこのような授業を支える資金がなくなったと言っています。驚きます。日本の女子は裁縫や料理を小、中学校で学ぶので、基本的なことは大体できます。アメリカ女性はボタンをつけたり、スカートの裾を上げたりするような簡単な裁縫さえできない人がいて、びっくりします。こういう能力がないことも原因しているのか、裁縫で補修してまた続けて使用するという観念に欠けます。このような世代の繰り返しのため、物を大切に使うという考えに欠け、捨てるということに対する抵抗がないアメリカ人が非常に多いのに気がつきます。現代のゴミ問題を真剣に考えてみると、服にしろ家具にしろ、ベッドカバーやカーテン等の室内商品にしろ、自分達である程度、基本的な修理や補正ができることは、人間生活に不可欠な手技であると私は考えますが。
衛生や栄養に関する授業もないんです。よって、食生活に対する栄養の基礎知識に欠ける人間が多く、野菜を食べる習慣に欠け、毎日の正食も間食も数々のジャンクフード(Junk Food)で済ませ、アメリカの親達も太り、その子供が肥満児であることは、日本でもう既に報道されていることでしょう。オバマ大統領夫人までが、野菜や果物をもっと食べなさいとアメリカ国民に奨励しているが、これは阿部首相夫人が、日本の国民に野菜や果物をしっかり食べなさいと、テレビやラジオで言っているようなもので、もし夫人が同じような事を国民に言ったとしたら、とてもおかしな話でしょう。衛生教育に関して、もう少し話すと、私の娘が小学校に通っている時、その学校では昼食の前に手を洗うという時間を子供達に与えていない、ということに気が付き、そのことに関して、私が担当の先生に質問してみると、“皆が手を洗う石鹸やペーパータオルを買うお金は学校にはないんです”という答えが返ってきてました。
アメリカ社会では金集めという行動が大変立派なことと考えられているらしく、子供がまだ6-7歳の頃にお金集めの大切さを教えます。(アメリカ人が拝金主義なのは実はこのためである、と私は思っている。)募金という名の下で、お金を多く集めた子供を学校の先生も親も、一緒になって褒め称えます。そして、政府が出す教育資金が削減される度に、学校が募金活動を奨励し、集めたお金を教室内で使う教材用に当てていることも聞いています。
日本には道徳という授業がありますが、これに等しいものはアメリカにはありません。私が日本にいた頃は、道徳の時間に協同精神や礼儀作法、つまり社会人としてのマナーというものを学びました。アメリカ生活に慣れた私でも、アメリカ人の粗雑なマナーには、毎日のように不愉快な気持ちにさせられます。昨日OLD NAVY店内で起こった事を例に話します。単純なことです。店内で両側に服などが並んでいる狭い通路を私が通ろうとした時、その店で働く女性店員が反対から、私の方に向かって歩いて来ました。日本ですと、当然相手の女性店員がその通路を客に譲りますよね。この店員が通路を譲るような様子がなかったので、私は自然と後ろに一歩戻り、この女性店員に道を譲りました。(これは日本女性の習性でしょう。)すると、彼女は“Thank you!”とも言わないで、まるで当たり前のことであるかのように、すれ違って歩いて行きました。このような非常に小さなことでも、アメリカ人が相手に自分の場所を“譲る”のではなくて、“自分”を先にするということがわかります。(つまり、これも自分の主張が先ということです。)日本人は、逆に相手のことを考えて、日頃の細々としたことにまで気がまわり、自分を後回しにする行動に出る感性があることがよくわかります。相手に道を譲るという人間関係が心を温める平和な空間を生み出すと、私は思いますが。
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―矛盾したことを平気でやるのがアメリカです。―
この例をもう少しあげます。正式ルートを通らないで、アメリカに違法で住んでいるメキシコ系移住者が多いです。パスポート無しに国境を越えた親と共に、子供の時にアメリカに来た人もいます。そして、中にはアメリカの大学まで行ったりもします。自分を証明する書類がないのに、いかにして小、中、高学校に行き、大学にまで入れたのでしょうか。これ自体不思議な話ですが、まだもっとあります。その中に法律学校に行き、法律学位を終了した男性がいました。で今度は、実際に法律家として仕事を始めるには、州が発行する免許が必要です。そのためのテストにもパスし、州から法律家ライセンスも与えられました。すると、その後すぐに、カリフォルニア州法務部門は違法移住者に法律家の免許を出したのは間違いでしたと、彼の免許を取消しました。すると、彼はカリフォルニア最高裁判まで、州の法務部門のライセンス取消は法律違反であると訴えました。いろいろあった後、最後にはこの男性は州の法務部門から法律家として免許を勝ち得ています。不思議な話です。誰かの手と力と金が後ろで動いているとしか、私には考えられません。
国の健康保険に関しても同じです。このような違法移住者に州の税金を使って、健康保険をかけてやろうという動きが今発展しています。小、中学校の教材費も、資金がないと十分出せない州が、アメリカの法律を破り国境を超えて来た、身分証明書もない移住者連中のために、どうして健康保険を出してあげるような資金があるんでしょう。そういう発想自体大変不思議で、私にはどうも納得が行きません。
私が言ったように、自分達の利益を考えて、都合の良いように、法律やルールの文面の意味を変更するのがアメリカのやり方です。この都合の良く内容変更された法律を日本にも応用しているでしょう。日本政府はこれに対して、どのように対処しているのでしょうか。アメリカの法律はあってもないようなものです。その記述の意味を、必要に応じて上手に変更し正当化するわけですから。
“All men are created equal”( US Declaration of Independence)や“equal justice under law”(US Supreme Court)と言った民主主義の基本をされているこれらの言葉も、単に名文だけで、実際の行動はその1%も伴っていません。要するに、世界にカッコばかりつけて演技が大変上手なのがアメリカで、実際には、得体の知れない国です。
アメリカは日本に原爆を落としたことに対する詫びをしていません。日本側もアメリカに詫びを要求していません。アメリカの新聞を読んでいると詫びるどころか、逆に、原爆を落としていなければ戦争の犠牲者がアメリカにもっと出ていたよ、と原爆放射に対する反省はまったく見られないようなことを言っているアメリカ人もいます。
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―日本の将来を真剣に考えると、日本はアメリカから文化距離を置くべきです。―
国の祝日に、日本人が国旗を出さないでいるのが、私には理解できません。アメリカ人は何かの休日があるごとにアメリカの国旗を家の前に出します。休日に関係なく、年中国旗を出している人もいます。この部分のアメリカに関しては、日本人が真似すべきことです。日本は国の休日に国旗を出すこともなければ、日本の伝統を意味する着物姿も殆ど見られません。
日本はたいへん良い国で、日本人は相手を思う優しい人種であると、私は思っています。アメリカに長く住めば住むほど、日本の国の良さと日本人の良さがしみじみと感じられるのは、多分、私だけではありません。日本を長く離れている私のような日本人は沢山いて、このような海外滞在者に限って、逆に日本の心を大切に思い、日本を大変愛しています。日本を代表して、日本に誇りを持って、日本の国旗でも背負っているように、毎日海外で生きています。
日本は、アメリカという国の本底をよく知らないで、その表面だけを見、称賛し、真似をしています。危険です。日本人のためにはなりません。生きるすべてのものの命の尊さが理解できず、まるで蟻でも殺すように人の命を奪ってよいというアメリカが、人権を唱える本当の民主主義国であるはずがないと私は考えます。今の日本の若い世代がアメリカにほれ込んで、勝手放題のアメリカ個人主義よかれと、その真似ばかりしていることに対して、危機を感じます。アメリカの刺青ファッションが、間違いなく日本にやってきます。そして、このアメリカの刺青ファッションを真似る人達は、個人表現は民主主義の自由である、刺青の何が悪いと裁判沙汰になりますよ。
日本の西洋化をどうお考えでしょうか?私の考え方はどう思われますか?
日本の西洋化を止める方向に少しでも向けられないかと、私は思っています。アメリカの悪い部分を断ち切り、日本独自の国に少しずつでも戻っていく手段が何かないか、そして、日本人の簡素な精神文化を取り戻すことができないかと考えます。アメリカの 好戦的なやり方から距離を置く、または、できれば離脱し、日本が持っていた人としての優しさを取り戻し、世界に反映させたいのです。これは、日本人の再日本化です。
戦前に生まれた日本人が少なくなって、自分だけの幸せが人生の目的である日本人が多くなったとしたら、日本は現在の姿のアメリカへの道をたどっているということです。悪い影響が来るのはまだまだこれからです。
日本は徐々に次の大きな戦争参加への道を歩いています。クリスチャン(キリスト教徒)の国でもない日本をイスラムステイトに“敵”とみられ、ジャーナリストの首切りが起きたことが、正に、いかに、日本がアメリカに近づき過ぎてしまったかということを示しています。
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―ガンディーは多種多様の人種と宗教が、動物とも一緒に共存する平和な世界を望んでいました。―
服部君のお母さんは、“ピアーズも拳銃の犠牲者かもしれません”と言っています。なんと優しい人なんでしょうか? 愛した息子を殺した憎むべきこのアメリカ男性を許そうとしているんです。この憎い人間を許そうとする行動は人間愛です。これも正に、ガンディーの生き方でした。
ガンディーは誰も気がついていなかった20世紀の初頭に、健康衛生、動物愛護、さらに、自然環境について考えています。動物を殺して毛皮を楽しんでいた西洋のフアッション界を鋭く批判しています。人間は、人間が生きていくための最小限のものだけを消費すべきであると言っています。無駄な消費を励ます生産企業を批判し、人間は自己自制が必要であると伝えています。彼は百年前に、自然には限りがあること、金銀で飾る資本主義と消費社会が自然環境を毒することを、既に知っていたのです。
彼はロシアのトルストイが死ぬ前に何度か手紙のやり取りをしました。お互いに尊敬しあい、励ましあい、トルストイが書いた“The Kingdom of God Is Within You ”という本がガンディーの思想に強い影響を与えたということを読んで、私は感動しました。この年になるまで、彼らの偉大さを知らなかった自分の無知さに気がつき、私は今まで真に生きていなかった、と感じている次第です。最近、ユタ(UTAH)にある雪の中をスキーし、私の前にも後ろにも、人ひとりいない空間を体験し、これが私が今いる場所なんだと感じています。私もガンディーのようになんにも恐れない人生を、今生きようとしています。
書きたいことは切りがないほどいろいろあります。例えば、アメリカでは宗教と政治が完全分離されていないことや、女性の中絶を違法としている州がアメリカには多いこと、さらに、日本にあるような立派な保育園制度がアメリカには存在しないこと等々。でも、この手紙も大変長くなりましたので、貴方から何かご返事を頂いたときに、このような事はお話をしたいと思います。
ご返事をいただけると嬉しいです。お待ちしています。
敬具
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